誰かのために作らなければ、という呪縛
「こんな美味しそうな食事を作ってくれるお母さんがいて子どもさんは幸せですね」
「お料理上手な奥さんですね」
無意識に、そんな賞賛を浴びたいと日々の食事を作っていたのだろう。
けれども何故だろう?
折に触れ言われるほど、なんともしっくりこない違和感があったし嬉しくもなんともなかった。
それは
いいお母さん・素敵な奥さん=美味しい食事を作れる
という今の世間一般の風潮にまんまと乗っかって、それが当たり前のことと信じていたけれど
本当の自分の思いとはかけ離れていたからのでしょうね。

子育ても一段落して、ottoと2人の食卓になることも多くなったこの頃、
気づきました。
「誰かのために作る、という行為がとってもしんどい」ということが。
だからottoのために作らなければならないということが、
もうもう本当に!億劫でしかないのでした。
え〜え〜、自分には先天的に母性がやはり少ないからだよ、
本来自分勝手な性格なんだよと、
開き直ろうともしましたが、どうもそうではない。
それはいい妻、母でいるための「食事を作る」という呪縛からだったと気付いたのは、
土井善晴先生の著書「一汁一菜で良いという提案」でのインタビューを読んで、なんだかすっきりとしたから。
今の人たちってごちそうが家にある状態を当たり前だと思っているんです。お寿司とかお肉とか、口に入れた瞬間に「おいしい!」って感じるようなごちそうを、お父さんも子どもたちもみんな食べたがる。お母さんが全部手作りでその声に応えようとしたら大変なことになりますよ
家庭料理は、当たり前の下ごしらえ以上に手を掛ける必要はないんです。手を掛ければ手数が増えるので、その分だけ食材が傷んでしまう。ひと手間掛けることを愛情だと誤解している人が大勢いますけど、それは自分で料理のハードルを上げて自分を苦しめているだけ
家庭料理は自由でいい
好きなもの、あるものを食べればいい
どんどんレッテルを外していくと、
ottoが満足するものを作らなければならない・・という呪縛からも自由になれた!
すると不思議、
あれだけ億劫だった食事作りのストレスをほとんど感じなくなっている!!
子育て中から、自分で自分にストレスをかけながら食事作りをやっていたのですね。
だからね、
美味しいって言わなかったら、よく不機嫌になってましたもんね(笑)
「おいしい」って舌先で味わうものばかりじゃない。食べた後に「なんだか体の中がきれいになった気がする」と感じたこと、あるでしょう? 口の中に入れて体から出て行くまでが「食べる」という行為だとしたら、細胞のひとつひとつが喜ぶような、「心地良い」というおいしさもある。一汁一菜はその柱となる食事のスタイルなんです
シンプルなものをしみじみと美味しいと感じる食事は
なんて豊かなんだろうと思う。
その感覚を育てていく日々を大切にしたいなぁ〜
・・と、今やとっても穏やかな気分でいます(笑)。
自分の縛りを解いていくと、
もっとのびのびと
食べること、作ることができそうです。




















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